2013年4月23日火曜日

恋瀬小学校

恋瀬小学校学校沿革
明治 5年 8月 大増学校,大塚学校,太田学校創立
明治19年 5月 三校を合併し小見尋常学校と改称
明治26年 村中央二本松地内新校舎落成移転
大増小学校新築
恋瀬尋常高等小学校と改称
昭和16年 4月 恋瀬第一国民学校と改称
昭和22年 4月 恋瀬村立恋瀬小学校と改称
昭和30年 1月 八郷町立恋瀬小学校と改称
昭和40年 3月 学校林設置
昭和41年 3月 創立90周年記念式典
昭和41年 4月 特殊学級設置
昭和43年11月 学校林最優秀で表彰される
昭和46年11月 緑化コンクール優秀賞受賞
昭和51年 2月 創立100周年記念式典
昭和51年 7月 プール新設
昭和54年11月 学校造林コンクール模範賞受賞
昭和59年 4月 大増小学校と統合し八郷町立恋瀬小学校となる
昭和61年 3月 新校舎完成
昭和62年 3月 体育館・焼却炉を建設 設置
平成 2年 3月 屋外運動場完成
平成 3年 2月 健康優良学校県知事賞受賞
平成 4年 2月 健康優良学校県教育長賞受賞
平成 8年11月 町のびのびスクール推進事業研究発表
平成10年 3月 防災倉庫完成
平成11年 8月 コンピュータ室改修
平成13年 4月 県教育委員会指定ふるさと発見事業
県児童生徒ボランティア活動普及事業協力校
平成13年11月 町のびのびスクール推進事業研究発表
平成13年11月 アルミ缶回収優秀校の表彰を受ける
平成15年 7月 学校評議員発足
平成17年 4月 県教育委員会指定ふるさと発見事業
平成17年 9月 花いっぱい運動中央審査入賞
平成17年10月 石岡市と八郷町が合併し「石岡市立恋瀬小学校」と改称
平成18年10月 アルミ缶回収優秀校感謝状受賞
平成18年11月 第43回全国花いっぱいコンクール「日本花いっぱい協会賞」受賞
平成19年11月 第35回花と緑の環境美化コンクール「茨城県県議会長賞」受賞
平成20年10月 平成19・20年度石岡市教育委員会・石岡市教育研究会研究指定校発表
平成20年12月 第36回花と緑の環境美化コンクール「茨城県知事賞」受賞
平成21年 4月 大好きいばらき花と緑の県民運動モデル指定校【 ~平成25年度】
平成24年 1月
環境保全茨城県県民会議主催いばらき緑のカーテンコンクール「優秀賞」受ーテンコンクール「優秀賞」受賞

2013年4月18日木曜日

恋瀬村

恋瀬村

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恋瀬村
廃止日 1955年1月1日
廃止理由 新設合併
柿岡町小幡村葦穂村恋瀬村
瓦会村園部村林村小桜村
八郷町
現在の自治体 石岡市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 茨城県
新治郡
隣接自治体 葦穂村、瓦会村
西茨城郡岩間町南山内村稲田町東那珂村
真壁郡真壁町
恋瀬村役場
所在地 茨城県新治郡恋瀬村大字大増
外部リンク なし
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恋瀬村(こいせむら)は茨城県新治郡にかつて存在した村である。

目次

地理 [編集]

歴史 [編集]

村名は恋瀬川の上流に位置することに由来する。

村域の変遷 [編集]

変遷表
1868年
以前
明治22年
4月1日
昭和30年
1月1日
平成17年
10月1日
現在

大塚村 恋瀬村 八郷町 石岡市 石岡市

大増村

太田村

中戸村

小見村

大字 [編集]

  • 大塚(おおつか)
  • 大増(おおます)
  • 太田(おおた)
  • 中戸(なかど)
  • 小見(おみ)

人口・世帯 [編集]

人口 [編集]

総数 [単位: 人]
1891年(明治24年) G10.pngG10.pngG01.pngG01.pngG01.pngG01.png 2,481
1920年(大正 9年) G10.pngG10.pngG10.pngG05.pngG01.png 3,268
1935年(昭和10年) G10.pngG10.pngG10.pngG05.png 3,539
1950年(昭和25年) G10.pngG10.pngG10.pngG10.pngG01.pngG01.png 4,254
この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

世帯 [編集]

総数 [単位: 世帯]
1920年(大正 9年) R05.pngR01.png 661
1935年(昭和10年) R05.png 595
1950年(昭和25年) R05.pngR01.pngR01.png 729
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参考文献 [編集]

関連項目 [編集]


2013年4月15日月曜日

大増城

Omasu Castle (Castle-Hachimantai Ishioka Omasu character Hachimantai)
大 増城は、八郷町の北部にある。県道64号線沿いに「大増」というバス停があるが、その西側に少し入っていった所に顕徳院という寺院がある。その西南側の比 高20mほどの台地が城址である。台地奥の1郭の土塁上には八幡神社の祠が祭られており、八幡平城の別名はこれによるものである。またこの城に南側から続 く登城道は馬場道と呼ばれているという。
 台地上 はかなり広大であるが、段々の畑の跡が荒地となって広がっている。基本的にはこれらの畑地跡が郭であったのではないかと思われるが、気になるのは、これら の畑の土手がみな新しいもののように見えることだ。これらは重機による近代のものの可能性が高いので、この畑の配列をそのまま郭の構造として認識してしま うと、かなりの勘違いをしそうである。とはいえ、耕地整理するにも、旧状を最大限に活かした方が効率的であるので、城塁がそのまま生きている場合もある程 度はあると思われるが、現状ではどこまでが遺構であるのか区分するのは難しい。
 しかも 台地上はかなり広いため、これらをすべて城域として捉えると、大増城は茨城でも屈指の大城郭の1つということになるであろう。しかしそれではあまりにも広 大でありすぎる。実際には7の堀跡と思われる窪み辺りまでが城域ではなかったろうか。先端の広い部分などは梅林などになっているが、地勢が平坦ではないの である。ただしこの台地、斜面が天然の切岸といっていいくらい急峻になっているので、何もしなくても、そのまま籠城できるくらいの要害性はある。これにつ いては、次のような発想をしてみると面白い。段々の数多い郭は、城主とその一族だけのスペースとしては広大に過ぎる。しかし、合戦時に領主が村人たちも保 護するスペースとして利用されていたと仮定すると、広大な台地も「生きた空間」になると考えられる。横から見るとこの台地は2つの山が並んでいるようにも 見えるのであるが、それらを城主の籠城場所、領民たちの籠城場所、といったように区分して考えてみるというのはどうであろう。まったくの想像であるが、そ んな風に「想像してみたくなってしまう。
 遺構が 明瞭に見られるのは1、2の郭とその背後の尾根続きの部分である。2の部分が実質的な主郭であろう。長軸60mほどの郭である。その北側には2郭よりも 2mほど高い細長い郭がある。ここには実際には郭というほどの広さはないのだが、土塁にしては幅広なのでここを仮に1郭としてみた。そのさらに南側には土 塁が盛られており、その先端部に先に述べた八幡様の祠がある。八幡は大増城主古尾谷氏の守護神であり、この祠も古尾谷氏によるものであるらしい。この祠の 周囲には石垣の残欠が見られるが、これは近代のものであろう。
 八幡のある土塁の南側には二重堀がある。いずれも土橋を一本だけ残して両脇を竪堀にして深く掘り込んでいる。ただし、1郭直下の堀は西側では横堀となって台地の下の方まで続いている。
 二重堀 の南側には細長い小郭が1つあり、その先に再び堀切がある。この堀切は深さ5m、幅8mほどあり、現存する堀切では最大のものである。この先の尾根続きは 地勢が再び高くなっていくので、この堀切がボトムということになる。ここが城域を画するものであると見てよいであろう。この尾根続きとの区画の仕方は、同 じ八郷町の手葉井山城でも見られるもので、ちょっと構造的な類似性が認められるが、築城にまつわる人物に何らかの共通性があったのかもしれない。(ここの 城主古尾谷氏と手葉井山城の城主小幡氏とは、ともに小田氏の古い家臣である。)
 この城 の残存遺構で最も特徴をうかがい知ることができるのは、3の虎口とその周辺であろう。下から道を上がってくると、3の虎口のところで道が2つに分かれる。 左手に進むと、道は堀底を通るのであるが、この間、敵は2郭の塁上と5の郭の土塁の上からとの両側面からの攻撃にさらされることになる。ルートを折り曲げ 複雑にすることによって、敵の動きを食い止めようとする意図がよく見えるのである。こうした技巧的部分は戦国期に形成されたものであろう。おそらく本来は 城全体に技巧的な部分が見られたのではないかと思うが、城域の大半が耕地整理のために重機によって荒らされてしまっているので、現状ではそうしたものを他 の部分で見ることはほとんどできない。
 このように大増城は城域もかなり広く、そこそこ技巧的な戦国期の城郭であったと考えられる。ただし改変がひどいために、細かい部分で旧状を推し量るのはかなり難しくなってしまっている。
 それにしても。この台地上はかなり広くて畑作には非常にいい場所であると思われるが、現在ではほとんど捨てられてしまっている。農業後継者がいないということなのだろう。 

7の堀の 東北側から見た大増城。中央こんもりとした山林の奥に、三重の堀切が残っている。手前の段々の畑も郭であったと思われるのだが、城塁が重機によって削られ たような形状をしている部分が多く、かなり改変されているようだ。 台地にあがる切り通しの部分。後世の改変の可能性も高いが、虎口であったとも考えられる。

1郭の郭内は杉林となってよく残っている。手前には横矢折れのようなクランクがあるのだが、城塁の削り方が新しい。 1郭南側の土塁には石積みが見られるが、これは八幡の祠に伴って築かれたものであろう。上に八幡の祠があることにより、この城には「八幡平城」という別称 もある。

八幡祠の裏の堀切。城塁の高さは5mほど。堀底は西側に回りこんで横堀となっている。東側は土橋を残して竪堀となって下へ落ちていく。この左手部分は土塁 で、その先にも堀切があり、二重堀となっている。 二重堀のさらに南側にある堀切。両脇は竪堀となっている。この先は尾根が次第に高くなっている。ここが城域を画するものであったと考えられる。

3の虎口。下からの道はここで2方向に分かれる。まっすぐ進むと1郭下の堀切の所に出る。左に折れて進むと5の郭との間にある変則的な堀のところに出る。この堀の形状はちょっと面白い。 大増城の山麓にある顕徳院。城主古尾谷氏の菩提寺である。左側の台地が大増城址。
 大増城は戦国時代、古尾谷壱岐守の居城であったという。古尾谷氏に関しては「真家氏文書」の中に「足利満兼、真家家里に真壁郡源法寺を賜う時に、真壁近 江次郎、兵を率いてこれを防ぐ、満兼重ねて修理亮海老名秀茂・前肥後上古尾谷朝景をして莅(のぞ)んで其地を付く」などといった記事が見られるという。

 また「小田軍記」には上曽氏の鯨岡城へ、佐竹氏の息がかかった大田三楽らの軍が攻め寄せてきた時に、大増に援軍を求めているような記述が見られるという。古尾谷氏が上曽氏と共に小田氏に属していたことの傍証となるであろうか。






いしおか恋瀬姫ブルー ~石岡酒造~

恋瀬地区歩く会2010 IBARAKI JAPAN - YouTube

 

[恋瀬ミク] コネクト、歌ってみた。 - YouTube

 

『萌え酒』 いしおか恋瀬姫ブルー 




JAやさと 直売課

 

 

恋瀬好友会

http://tmtamur2.wix.com/koise

www.geocities.co.jp/Outdoors-River/.../page008.html - キャッシュ

羽鳥駅=園部=恋瀬小=板敷山前 - 時刻表.Locky - 駅情報一覧

 


恋瀬川

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恋瀬川
River Koise from Koise Bridge.JPG
国道6号恋瀬橋から見た恋瀬川(2009年6月)
水系 一級水系 利根川
種別 一級河川
延長 27.85[1] km
平均流量 2.32 /s
流域面積 212.6[1] km²
水源 吾国山(石岡市
河口・合流先 霞ヶ浦(石岡市)
流路 石岡市 - かすみがうら市 - 石岡市
流域 茨城県
テンプレートを表示
恋瀬川(こいせがわ)は、茨城県を流れる石岡市北部(旧八郷町域)から、南東に流れて、霞ヶ浦に注ぐ。
流域には古代からの遺跡が多く残されている。また河口近郊には常陸国府がおかれ、常陸国風土記にも「志筑川(しづくがわ)」という名称で表記されている。
読み仮名が5文字であり、「恋」がつくことから、中村美律子八代亜紀の演歌のタイトルにも使用されている。


茶臼岳 : 恋瀬・大増 - NAVER まとめ

matome.naver.jp/odai/.../2130304319482670803 - キャッシュ

加波山鉄道の築提跡と軌道跡[石岡市] - 常陽リビング特集『茨城歴史散歩』

 









小野小町の里

小野小町の里・土浦市(旧新治村)06/07 ○小町の里・・筑波山パープルラインの土浦側 入口(旧新治村)から少し進むと小さな小町の里の看板があり、そこを左折し、さらに 進むと小町の里がある。